今朝の座禅で感じた事を書いています。

会場のお寺の一室は今、リフォームをされています。

今朝は、その工事の為に貼られていたと思われるビニール
が風に揺られ、

【ソヨソヨ】

【サワサワ】

といった感じの優しい音を奏でている中で座っていました。

それは何とも言えず心地の良いものでした。

しばらくすると、突然ドアが開けられ、どなたかが堂内に
入って来られました。

どうやらその方は、工事の関係者であったようです。

しばらくすると、先程の、

【ソヨソヨ】

【サワサワ】

という爽やかさを感じるビニールの音の他に、工事関係の方が
恐らくその準備の為に行動されている音が、同時に耳に入って
きました。

私の感覚は、その工事関係から作りだされる音を瞬時に、

【雑音】

と捉えました。

ここで言う雑音とは、

【自分にとって不必要な音、座禅の集中を妨げる音であった】

という事です。

その後、こんな事を観じました。

【人工的に作りだされた音は全て雑音なのだろうか?】

【それは、作りだされた音に責任がある訳ではなく、雑音
と捉えてしまう自分自身にその責はあるのではないか】

と。

例えば突然現れた方が工事関係者ではなく、それこそ、
琴の奏者の方で、その楽器を私たちの為に奏でてくれた
としたら、おそらく雑音とは捉える事はないでしょう。

どうやら私たちは、

【私たちの為に届けられた人工的な音は雑音と捉える事はなく、
私の為にという想いの入っていない人工的な音は雑音として
捉えてしまうという、誠に自分勝手な解釈をしてしまう特性が
ある様です。】

ですから、今回のようなケースでは

【工事関係の音が聞こえてきたので、座禅に集中できなかった】

となりがちですね。

座禅に集中できなかったとしたら、その音に責任が、問題が
あるのでしょうか。

音に責任があるならば、なぜビニールが風に揺らぐ音は心地
良いと感じたのか。

同じ、音であるにも関わらず・・・・・・

結局は、人間というものは

【基本的に自分の都合を優先してしまいがちです。】

後々必要な、大切なものであったとしても、今必要のないものである
ならば、邪魔なものとして扱いがちです。

座禅中、リフォームのための音を雑音と感じ取ってしまったとしても、
恐らく数週間後、完成したお部屋で過ごさせて頂く際には、雑音と
捉えた音がその部屋をもたらせた、という事などは一切忘れて
心地良さしか感じないでしょうね。

人が悩みや、苦しみ、そして辛いという状態に陥りがちな思考
パターンに、

【〇〇〇〇といった事(出来事)があるので、△△△△できない】

というケースが見受けられます。

要は、

【何かの出来事がもたらされたので、苦しい、辛いんだ】

という様に。

私たちが日々をつむぐ限り、常に様々な出来事が運び込まれてきます。

それら全ては、私たちを心地良くするためのみにもたらされる訳では
ありません。

【工事関係の雑音が聞こえてきたので、座禅に集中できなかった】

そう感じたとしたら、それは今現在の自分はそう捉えてしまうタイプ
であるという事です。

もっと簡潔に言えば、

【座禅に集中できないのは、邪魔な耳障りな音があるからである】

と言っているのと同じで、いわゆる、

【自分ができない事を、何か他のせいにしがち】

なタイプなんですね。

自分にそんな思考パターンがある事に気付いたとしたら、

【自分という存在は、自分が想定している以外の出来事が発生した
場合、集中できなくなる傾向がある】

と理解すれば良いのです。

そして、そんな自分を変化させたいのであれば、

今回のケースだとすると、

【それは何のための音なのか】

【その音はなぜ必要なのか】

【その音は何をもたらすのか】

という事をみつめ、工事の音が聞こえて来たとしたら、その先に
完成したその場に集う人々の楽しそうな、心地よさげな姿を
イメージする。

そんなイメージトレーニングや分析を積み重ねていけば、例え
どのような出来事がもたらされたとしても、立ち続ける事の
できる自分に近づいて行けるはずです。

出来事に左右されない、されにくい自分の構築。

簡単な事ではありませんが、苦しみや、辛さから逃れたいの
であればそこに辿り着くのが一つの方法だと、そう思います。

【運ばれた出来事には、罪も責任もないのです】